共沸

思うところがない

「伝達と信仰」

おはようございます。

これは信仰で、詩です。

 過去の記事を読み返しました。文章が具体例を欠きがちで、敬体と常体がちゃんぽんだと自覚しました。改めません。詩です。

 

Ay yo. Check.

ところでみなさん分かり合っていますか。いいえ。

人物を理解するというのは、暴力まで行かずとも少なからずハラスメントではあります。ところでこれは信仰です。

意見でもまして正しさでもない。論拠とか不在で、用意したところで根まで詰めると塵芥に分解して不毛ひいては虚があります。新たに記事が作成する。

Put your hands in air.

Make some noise. Ho!

他人を理解するとき、支配と隷属が生成します。デモクラティックではない――市民と市民の関係として些か不適切で、階級が発生する。

思いやりとは畜獣への愛玩を超え得ない。人間としての他を尊重する限り理解などしてはいけない。神域ないし禁域で、傲慢ないし越権であるので。

これは信仰です。

大いなるブラックボックスを讃えよ。

Everybody's gonna party NOW!

コミュニケーションというと語義が犯され果てておりグロテスクなので、ここでは伝達、相互伝達、理解、わかりetc細分化と言い換えを行う。

逆説的だが伝達を諦めた方が良い相互伝達になる可能性がある。「話せばわかる」ではなく今は「話してもわからない」場合であり、ところで俺は表現する。

プライドが高いので理解られたくない傾向がある個体は遍在し、私や一時期の二宮飛鳥さんです。これは信仰です。意見未満の囈です。

繰り返す信仰ですの文言は割りと有用なセーフティで、凡そを相対化する呪縛です。平等化という暴力で真理を寝言まで貶める魔術です。

意見の食い違いは異なる倫理体系の脳へのプリセットに起因するのだとを丁寧な前提確認がしばしば闡明します。倫理は感情或いは信仰と同カテゴリに根を張りがちです。故に論理で解決し得ず説得が不可能で、信仰で、それは人間が人間を理解できない/してはならない所以です。

私が「信仰です」を以て他者の価値観も併せて総て凡庸の一つへ貶めんと試みるように、他人を或いはその倫理を理解する/した気になることは脳内のお人形までの落とし込みへの欲求です。

駄目なんですよ。人と人は分かり合えません。人間に進歩あるならば、他者を理解してはいけないし、他者への理解を前提に伝達を試みてはいけません。それはナチュラルに彼者の人権を或いは尊厳を涜することでして、マウンティングやハラスメント、有り体に言えば暴力のうちに相手を支配しようとすることであります。

ところでこれは僕個人の信仰です。

あなたの信仰については理解りませんし聞いていません。

人間の、市民の、と形容していますが又の見方をすればヒトという種に属していても人間と、或いは市民と見做していない相手について我々は理解を許されると信仰しています。

大いなるブラックボックスを讃えよ。

「それら」は奴隷/家畜/愛玩動物/自然現象/概念/非生物存在/非存在、如何を関わらず人間ではないので、理解しても良い。信仰です。

極論ですか?理解りませんか?それは良かった。

普通ですか?理解りましたか?殺してやる。

物騒な文言ですか?通報しますか?

いいえ、これは詩です。意見でも、エッセイでもなく、詩です。

これは信仰です。真理でも、意見でもなく、信仰です。

You know I love you.*sigh*

Have a good night. Bye.